鬼が――――――――――――――――嘲笑った。


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 神楽坂 郁乃(かぐらざか あやの)には兄がいる。
 自分と違って優秀で、自分と違って力があるその兄が郁乃は羨ましかった。
 が、それ以上に日々陰で必死に努力している姿がとても誇らしかった。
 だからこそ郁乃は兄が偉い立場に就くことを疑わなかったし、そうあるべきだと思っていた。
 しかし、そんな考えでは事実は何も変わりはしなかった。

「郁乃、あなたを神楽坂の次期当主として正式に任命します」

 数日前、現当主である母親からその話を聞かされたとき郁乃は何を言われたのか理解したくなかった。
 何故と考える事はしなかった。
 この結末はずっとずっと昔から決まっていたことだからだ。
 『神楽坂の家系は代々女が当主の座を継ぐ』というそんな決まりがあったから、そうなることは分かっていた。
 それでもやはり郁乃は理解したくなかった。

 私が当主だなんてそんなのオカシイ。
 あんなに努力していた兄さんが選ばれないだなんてそんなのあんまりだ――――!

 兄が世界一努力しているなどと語るつもりはない。
 自分が軽々と語ってはいけないと思っているが、その努力する姿を郁乃はずっと見てきた。
 郁乃の中では兄ほど努力に日々を費やした人間なんていなかったから、告げられた言葉を理解したくなかったし、
聞き入れたくもなかった。
 郁乃は同じく母親の言葉を隣で聞いた兄を見る。
 怒ってほしかった。
 自分のことを憎んでもいいから、怒ってほしかった、そんな言葉認めないと言ってほしかった。
 でなければ一体どんな顔をしたらいいのか郁乃には分からなかった。
 そうして見つめた兄は、望みとは逆に微笑んで語りかけた。

「これから忙しくなるから、頑張らないといけないな」

 優しく語るその言葉に、語る兄の顔に郁乃は寒気を感じた。
 兄妹の仲は悪かったわけでも、良かったわけでもない。
 だからこそはっきりしていることだった。


 兄さんは一度も―――――――なかった。


 嫌な予感がした。
 今見ている自分の兄がどこかズレてしまったような感じ。
 確信はないが何か起きるかもしれないと思って、でもそんなことないと自分に言い聞かせて郁乃は心の中で
首を振った。





 だが、予感は的中した。




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 神楽坂 耕介(かぐらざか こうすけ)には妹がいる。
 耕介はその妹が憎かった。
 自分より力もなく才能もないというのに、ただ女だからというだけで自分が得るはずだったものを奪って
いった妹が耕介は憎かった。
 だから努力した。
 認められようと努力した。
 自分を突き動かしているハズの妹に対する憎しみがどうでもよくなってしまうくらい、必死に。

 それはきっと―――――とても純粋に努力したということに他ならない。

 他ならない、が、それで耕介が認められたわけではなく。
 数日前、次期当主は妹だと当の昔に決まっていた事実を母親は告げた。
 その時、隣にいた妹に対して耕介が再び憎しみの念を抱くことはなかった。
 ただ一言、


 ああ、やはり駄目だったか。


 心の中で諦めるようにそう呟いて、耕介の世界は崩れた。
 ある意味――――憎しみがどうでもよくなってからは特に――――努力だけの人生だった。
 認められたいという一心で過ごした日々、積み上げられ創られた世界。
 それは認められても認められなくても、どちらにせよ結果が出るまでの世界であり、結果が出た以上崩れ去る
のは当然のことだ。
 なのだから、それが理由ではない。

 理由は情けなかったから。
 次期当主に任命されて戸惑った顔をする妹に虚勢で微笑んでみせた自分が情けなかった。
 ほんの少しでも努力した日々を誇ってみせればよかったというのに。
 崩れるのが必定だった世界。
 だが、それを崩したのは努力の日々を誇りもせずただ事実を受け入れた自分自身。

 それがどうしようもなく情けなくて、耕介は自分の部屋で一人になって、泣いた。
 今まで努力した日々の中で泣かなかった分が一気に溢れてしまったのか、流れる涙は止まらない。
 叫びそうになる声だけ無理矢理堪えて、いつまでも泣き続ける。




 積み上げた世界が崩れて、まるで心に穴が空いたような状態。
 それでいて泣き続ける耕介はその穴を至る所に空けている。





 故に、簡単に入り込まれた。





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 鬼がいる。
 身体を失い、面に封じられ、小さな箱の中に閉じ込められている。
 身体と共に力も急激に無くした鬼に箱から抜け出す術は無い。
 もとより、箱から出られても面ではどうしようもない。
 人の心に付け入って操ろうにも、箱に施されている封印はそれを許さない。

 結局何もすることなく鬼は数百年を箱の中で過ごした。
 小さなソコには面である己以外何も無く、数百年の時間は鬼から意識を薄れさせていった。
 恐らくあと数年そのままだったなら意識さえも無くなってただの面に成り果てただろう。

 変化が訪れたのがいつのことだったのか鬼にも正確に分からない。
 ただ、気がつけば外界と小さな箱の中とを隔絶していたハズの封印がほとんど無くなっていた。
 気がつけばこちらのものだった。
 鬼の数百年で薄れに薄れた意識は薄れた時とは違い、急速に濃く、しっかりとしていく。
 やがて面に封じられた頃と同域にまで意識が戻り、鬼は密かに行動を起こす。
 まず差し当たっての問題である活動するための身体を探す。
 意識は戻っても力が戻ったわけではないため探せる範囲は広くない。
 だと言うのにその広くない範囲に良さげな身体があったのは鬼にとって奇跡だった。

 ――肉体の状態、良好。
 ――精神は……都合がいいくらい穴だらけ。

 意識の上で口元を歪ませる。
 軽く調べた対象は呆れるほど付け入り易かった。
 迷わず、その穴だらけの心に付け入った。


 数十分後。
 鬼は付け入り、操った人間を己の下までやって来させた。
 小さな箱の蓋が開けられ、操った人間の姿を捉える。
 程よく伸びている真っ直ぐな黒髪に肉付きのいい身体に神主装束を着ている青年――神楽坂 耕介が眼を虚ろに
涙の後を残したままそこに立っている。
 耕介は操られるまま面を、鬼の顔を象ったその鬼面を、付けた。

《「ふ、ふふっ、ふははははははははははっ!!!」》

 そうして耕介の身体を得た鬼は歓喜に震えた。
 両の手を握っては開いて感触を確かめる。

《「ふん、少し時間が掛かるかと思ったが身体の方は完全に掌握できているな」》

 人の身体の扱い方を確かめるように、ゆっくりと首を左右に動かし周囲を確認する。
 身体を探すときに周囲の様子は把握できていたが、実際見れていたわけではないのでよく見る。
 短い洞窟の奥のようで、周囲は全て岩。
 が、暗くはなく、どういう仕掛けか地面がほのかに光って洞窟の中を照らしている。
 鬼は手を伸ばして跳べば天井に触れられそうな洞窟の中、見える範囲全てを時間をかけて見た。
 そしてもう一度、次は数百年振りに何かを見る、という行為に歓喜した。

《「まさかまた何かを見ることができるとは、な!! 思ってもいなかった。さて――魂の方はさすがに
身体のようにはいかんか。ま、ぁいい。時間が掛かろうが必ず侵略し尽して鬼に成り代わってくれる。で……」》

 身体は確保できた。
 だが、それから何をするかという考えが無い。
 はっきりとした意識を取り戻してまだそれほど時間が経っていないのだから仕方がない。

 だから何かおもしろいものはないか、と乗っ取った耕介の身体の記憶を読み取る。
 特に期待はしていない。
 あればそれでいい、程度の考えだ。
 もし何も無ければそれこそ無差別に人を襲えばいいとさえ思っている。
 鬼とは、否、己はそういう存在だ、と鬼面の内側、意識の上でではなく耕介の口が歪む。

《「大したものは無いか……………んん?」》

 読み取った記憶の中、楽しめそうな情報を見つけるのと同時、その情報の中の人物がその場に現れた。

「兄さ、………ん……!!」

 巫女装束の小柄な少女、乗っ取った身体たる耕介の妹、神楽坂 郁乃。
 己を見て驚愕する相手のその顔を見て鬼の心が弾む。

《「ああぁ……やはりそういう顔をされてこその鬼、この己だ」》

 くはははは、と
 鬼が――――――――――――――――嘲笑った。


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