鬼の意識によって隅に追いやられている耕介の意識は記憶の海を漂う。
 何かの記憶を目指すわけでなく、ふらりふらりと漂う。
 そして、ある記憶に触れた。









 ―――――何も、始めから憎かったわけではないのだ。










「お前は神楽坂の後を継ぐのだから、強くなければならない」

 耕介が五歳になる頃、そう言われて修行が始まった。
 まるで両親からいじめられているのではないか、と勘違いしたくなるくらいの修行は好きになるはずがなく。
 それでも投げ出さなかったのは、家の中で自分の居場所が此処にしか無いという、単純にそれだけのことだった。
 当時の耕介には毎日行われる修行が疑問ですらあったが、厳しい両親の態度に、修行を投げ出せば自分のことを
見なくなるということだけは悟れたから、必死になった。
 強くなりたかったわけではなく、自分――神楽坂――の家を継ぎたかったわけでもない。
 両親にやらされる修行をこなすことでしか保てないものを、自分の居場所をその小さな身体で守るため。
 弱音を一度でも吐けば、涙を一度でも見せれば両親は自分のことを見なくなるという、そのことが怖かったから。
 家の外の世界を、まだロクに知らない子供の耕介にはそれがとても怖かったから。
 毎日、身体に悲鳴を上げさせる理由はただそれだけだった。
 二年が過ぎて、妹が生まれてもその理由に変化は無かった。

 変化したのは、とある一日が終わった時だった。

 その日、両親は揃って夜まで外へ出かけなければいけないと、耕介に妹の世話を任せて朝から家を出た。
 修行のせいで妹とまともに触れ合ったことのない耕介には、まさに初めてのことだらけだった。
 修行とは別の悲鳴を上げそうになること数回、なんとか小さな妹を抱きかかえながらあやすことにも慣れるようになる頃には、
夜になっていた。
 両親もあと一時間ほどで帰ってくる、と壁に掛けられている時計で確認して、耕介は静かにため息をつける余裕ができた。
 妹も、耕介と同じくようやく慣れたのか耕介に抱きかかえられても大人しくしている。
 見つめれば不思議そうな顔で見つめ返す妹を見て、耕介はふと思った。
 よく泣く妹だった。
 まず、起きれば泣いた。
 お腹が空いても泣いた。
 おしめが汚れても泣いた。
 そうでなくても泣いた。
 とにかく泣いた。
 妹が耕介に慣れていなかった事を差し引いても、本当に一日よく泣いていた。
 それでも――この一日は嫌ではなかった。
 疲れたけど、嫌なんてことはなく、むしろ嬉しかったくらいだ。
 それまでろくに実感できていなかった、妹という存在を、それこそ嫌になるくらい実感できたから。
 だから良かった、と思った。
 両親が帰ってきた後は、せっかく修行が無いのだからと早々に眠ることにした。
 眠りにつく直前、不思議そうな顔で自分を見つめていた妹のことが思い浮かんだ。
 そこで何故そう思ったのかは分からない。
 耕介は一日で嫌なくらい実感した妹という存在を大事にしたいな、と思っていた。
 何でだろう、と耕介の意識は思考しようとするが、日々の修行で疲れている身体は逆に早く眠れと瞼を下ろしていく。
 とても耐え切れずに瞼が閉じきると同時に、耕介の意識もそこで途切れる。
 だが、答えだけは既に決まっていた。
 ――――なら、どうすれば大事にできるのだろう?
 意識が途切れる直前に思った、決まった答えに対する疑問。
 答えは翌日、耕介の眼の前に示された。
 修行。
 二年以上続いたそれが、その朝からは違うもののように思えた。
 これだ、と自然に納得していた。
 修行で強くなれば妹を守ってやれる。
 守って、それで、大事にしてやれる。
 その答えに、耕介はとても素晴らしいものだ、と胸がじんわり熱くなった。
 好きじゃない、疑問ですらあるような毎日が、身体に悲鳴を上げさせるこの毎日が、妹を守るためになるというなら、
それはとても素晴らしいことじゃないか、と思えた。
 そうして、その日から耕介の修行は、やらされるもの、から自分から進んでやるもの、に変わっていった。





 それらが全て無駄なのだと知ったのは、妹が五歳になってから数日後のことだった。





 修行の途中、水を飲みに行こうとした耕介の耳に聞こえた両親の会話。
 その頃妹の修行が始まるということで、両親が話し合っていることは珍しいことではなかった。
 だから、そのまま水を飲みに足は進むはずだった。
 けれど、聞こえた会話に足は止まってしまった。
 その後のことを耕介はよく覚えていない。
 気がつけば、自分の部屋に立ち尽くしていた。
 覚えていたのは両親の会話の断片。

「―――これで、神楽坂の家も―――」

「――――そうね、郁乃が継いで、それで問題は無いわ」

 少し驚きだった。
 両親の中ではいつの間にか妹が家を継ぐことになっていたらしい。
 確かに、それを踏まえて思い返せば、自分から修行を進んでやるようになったから気がつかなかったが、随分前から両親は
修行についてあまり厳しくなくなっていたのではないか?
 ではそれがいつからだったか、と思えば、それも―――確かに、妹が生まれてからだ。
 その事実に、耕介の頭は一つの結論を出した。

 つまり――――自分は妹が生まれなかった場合の代用品で、自分の居場所はもう妹のものになっているのか。

 自分で出したその結論を、否定することができなかった。
 そのことに少しのショックはあったが、しかし別によかった。
 耕介が修行をしているのは、家を継ぎたいからではない。
 妹を守るために強くなりたいからだ。
 だから、妹が家を継ぐというのならそれはそれで構わなかった。
 耕介が何よりショックだったのはその後だ。

「耕介はどうする?――――」

「――とこかしらね。――――それでも、あの子が郁乃より強くなることはまずない。―――」

「男である以上仕方ないこと――」

 きっぱりとした断定だった。
 まだ修行を始めてもいない妹が、必ず耕介より強くなるという。
 それも、耕介は男で――妹は女だからという理由で。
 代用品なのは構わない。
 小さい時は必死になって守ろうとした居場所が既に無く、妹のものになっていたことだって構わない。
 ただ、それだけは胸が痛くなるくらいショックだった。
   それから耕介は修行を休んだ。
 妹が必ず自分より強くなるというのなら、耕介に修行をする理由は無い。
 自分の部屋の畳の上で横になって一日を過ごす。
 両親が何も言ってこないことが、自分が代用品だと意識させても、そうしていた。
 そんな過ごし方が一週間も続いて、耕介は自分が妹を憎いと思っていることを自覚した。

 自分は妹という女が生まれるまでの代用品だった。
 自分は男だから、女である妹より強くなれない。
 女である妹の前で、自分のこれまでは全部、無駄だった。

 ―――正直、女という存在が憎かったのかもしれない。
 だが、その時の耕介にとって女と妹は同じ意味でしかなかった。
  気がつけば、もう憎しみは増していくだけだった。
 そしてその憎しみが身体を動かす。
 部屋を出る。
 横になっている場合ではなかった。
 



 触れた記憶はそこまでだった。
 その後は、憎くむことも忘れてしまうくらいに修行をして、それでも結局認められなかった。
 記憶に嘘は無く、それが事実だ。
 なのに、耕介の意識は違和感を感じた。
 間違ってはいない、いないが、自分は何か大事なことを忘れているのではないか?
 今も、そしてあの時も。
 それが何なのか考えようとするが、狙ったかのように鬼の意識がほんの少し強まった。
 それだけで耕介の意識には夢でも見るかのように靄がかかっていく。
 違和感もその靄の向こうに隠れてしまった。
 


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